かつて高級車やレーシングカーの心臓部として一時代を築いた「直列8気筒」エンジン。その名を聞いて、長く優雅なボンネットを持つクラシックカーを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。8つのシリンダーが一直線に並ぶその姿は、見た目の美しさだけでなく、理論上振動が全く発生しない「完全バランス」という究極の滑らかさを秘めていました。 しかし、なぜ現代の乗用車ではほとんど見ることがなくなったのでしょうか。
この記事では、直列8気筒エンジンが持つ独特の魅力とその基本構造から、華々しい歴史、そしてV型8気筒エンジンとの比較を通じて、なぜ姿を消していったのかまで、そのすべてをやさしく、わかりやすく解説していきます。自動車の歴史に燦然と輝く、ロマンあふれる直列8気筒の世界を一緒に探検しましょう。
直列8気筒エンジンとは?その基本構造と特徴

自動車の心臓部であるエンジンには、シリンダー(気筒)の数や並べ方によって様々な種類があります。その中でも「直列8気筒」は、特にエレガントで高性能なエンジン形式として知られています。まずは、その基本的な構造と、どのような特徴を持っているのかを見ていきましょう。
8つのシリンダーが一直線に並ぶ壮大なレイアウト
直列8気筒エンジンとは、その名の通り、8つのシリンダー(エンジン内で燃料を燃焼させ、ピストンを動かす筒状の部品)がクランクシャフトに沿って一直線に並んでいるエンジンのことです。 略して「直8(ちょくはち)」とも呼ばれます。
構造としては、広く普及している直列4気筒エンジンを2つ繋げたようなイメージを持つと分かりやすいでしょう。 このレイアウトにより、エンジンは非常に長くなります。 第二次世界大戦前の時代、長いボンネットは高級車のステータスであり、この長大なエンジンを搭載することは、性能と富の象徴でもありました。 しかし、この長さが後に直列8気筒が姿を消していく大きな要因の一つにもなりました。
完全バランスが生み出す究極の滑らかさ
直列エンジンの大きな特徴として、気筒数が増えるほど回転が滑らかになる点が挙げられます。特に直列6気筒エンジンは、ピストンの往復運動によって発生する一次振動と二次振動を理論上打ち消しあう「完全バランス」エンジンとして知られています。
そして、直列8気筒エンジンもまた、この完全バランスを実現できる形式です。 簡単に言うと、エンジン内部で発生する細かな振動が互いに打ち消しあうため、非常にスムーズで静かな回転フィールを生み出します。 この特性から、「振動を排除したエンジン」と宣伝されたこともありました。 8つものシリンダーが次々と燃焼するため、トルクの変動が少なく、低回転から高回転まで淀みなく吹け上がるフィーリングは、当時の高級車や高性能車にふさわしいものでした。
長大なクランクシャフトがもたらす課題
直列8気筒エンジンの心臓部とも言えるのが、8つのピストンの往復運動を回転運動に変えるクランクシャフトです。8気筒分となると、このクランクシャフトは非常に長くなります。この長さは、直列8気筒のメリットであると同時に、大きな課題も生み出しました。
この問題を解決するためには、クランクシャフト自体の剛性を非常に高く設計する必要があり、製造には高い技術とコストが求められました。 また、エンジン自体が長くなることで、車体全体の剛性確保も難しくなるという側面もありました。 このように、直列8気筒はその滑らかさと引き換えに、構造的な課題をいくつも抱えていたのです。
直列8気筒の栄光の歴史
現代ではほとんど見ることのない直列8気筒エンジンですが、自動車史の初期から中期にかけて、特に高級車やレーシングカーの世界で華々しい活躍を見せました。その栄光の歴史を振り返ってみましょう。
黎明期:航空機エンジンからの発展
直列8気筒エンジンのルーツは、第一次世界大戦中の航空機エンジンにまで遡ることができます。 大パワーが求められる航空機の世界で、多気筒エンジンの技術が磨かれました。
そして戦後、その技術が自動車に応用され始めます。市販車として初めて直列8気筒エンジンを搭載したのは、1919年に登場したイタリアの高級車メーカー、イソッタ・フラスキーニの「ティーポ8」とされています。 5.9Lという大排気量の直列8気筒エンジンを搭載したこの車は、ロールス・ロイスなどと並ぶ最高級車としての地位を確立しました。 この成功を皮切りに、ヨーロッパや北米の多くのメーカーが追随し、直列8気筒は高級車の代名詞となっていきました。
黄金期:高級車とレーシングカーの象徴
1920年代から1930年代にかけて、直列8気筒エンジンは黄金期を迎えます。この時代、V型8気筒エンジンも存在していましたが、当時の製造技術では比較的構造が単純な直列エンジンの方が作りやすかったという背景もありました。 そのため、大排気量とパワーを求める高級車や高性能車にとって、直列8気筒は最適な選択肢だったのです。
アメリカではデューセンバーグやパッカード、スタッツといった名門高級車メーカーが、その滑らかでパワフルな走りを競い合いました。 ヨーロッパでも、ブガッティやメルセデス・ベンツ、アルファ・ロメオなどが、レースシーンと市販車の両方で直列8気筒エンジンを搭載したモデルを次々と発表し、その名を轟かせました。 特にレースの世界では、ブガッティ・タイプ35やアルファロメオ・8Cなどがグランプリレースを席巻し、直列8気筒の高性能を世に知らしめたのです。
有名な搭載車種たち
直列8気筒エンジンを搭載した車は、自動車史に名を刻む名車ばかりです。ここでは、その中でも特に象徴的なモデルをいくつか紹介します。
| メーカー | モデル名 | 生産国 | 特徴 |
|---|---|---|---|
| ブガッティ | タイプ35 | フランス | 1920年代のグランプリレースで無敵の強さを誇ったレーシングカー。 |
| デューセンバーグ | モデルJ | アメリカ | 「アメリカのロールス・ロイス」と称された、戦前アメリカを代表する最高級車。 |
| メルセデス・ベンツ | 540K | ドイツ | 優雅なデザインとスーパーチャージャー付き直列8気筒エンジンによる高性能を両立した傑作。 |
| アルファ・ロメオ | 8C | イタリア | ル・マン24時間レースで4連覇を達成するなど、レースで大活躍したスポーツカー。 |
| パッカード | スーパーエイト | アメリカ | 「スーパーエイト」の名で知られ、滑らかな回転フィールで高い評価を得た高級車。 |
これらの車は、現在ではクラシックカーとして非常に高い価値を持ち、世界中のコレクターや博物館で大切に保管されています。 日本でも、愛知県にあるトヨタ博物館などで、往年の直列8気筒搭載車を見ることができます。
直列8気筒エンジンのメリットとデメリット

究極の滑らかさを誇った直列8気筒エンジンですが、もちろん良い点ばかりではありませんでした。ここでは、そのメリットとデメリットを整理して見ていきましょう。この両面を理解することが、なぜ直列8気筒が歴史の表舞台から去っていったのかを解き明かすことにつながります。
メリット:圧倒的な滑らかさと静粛性
直列8気筒エンジンの最大のメリットは、その圧倒的な滑らかさと静粛性です。 前述の通り、直列8気筒は理論上、エンジンの往復運動による一次振動と二次振動が完全に打ち消される「完全バランス」のレイアウトを持っています。
これにより、まるでモーターのようにスムーズな回転フィールが生まれます。また、8つのシリンダーが90度ずつ(クランクシャフトが2回転する720度の間に8回燃焼)の間隔で次々と燃焼するため、トルクの変動が非常に少なく、アイドリングから高速走行まで振動の少ない快適な乗り心地を実現しました。 この特性は、静粛性と快適性が重視される高級車にとって、この上ない魅力でした。
メリット:多気筒ならではのトルク特性
シリンダーが多いということは、一度の爆発で生み出す力(トルク)は小さくても、その回数を増やすことで、全体として大きく滑らかな力を得られることを意味します。直列8気筒エンジンは、低回転域から力強いトルクを発生させ、どの回転域からアクセルを踏んでもスムーズに加速する柔軟な走行性能を持っていました。
特に、車重の重い大型の高級車をゆったりと、しかし力強く走らせるには、こうしたトルク特性が非常に適していました。小刻みな爆発が連続することで、エンジンの回転が非常に滑らかになり、乗員に不快なショックを与えることなく、優雅なドライビング体験を提供できたのです。
デメリット:エンジンの長さと重量
直列8気筒エンジンの最も大きなデメリットは、その長大なサイズとそれに伴う重量でした。 8つのシリンダーを一直線に並べるため、エンジン全長はどうしても長くなってしまいます。
このため、エンジンを搭載するスペースを確保するためにボンネットが非常に長くなり、車両の設計に大きな制約が生まれました。 また、長いエンジンは当然ながら重くなります。フロントヘビーな重量バランスは、操縦安定性に影響を与える可能性がありました。この「長さ」という根本的な問題が、直列8気筒がV型エンジンに取って代わられる最大の理由となります。
デメリット:剛性確保と製造コストの課題
エンジンの長さは、剛性の確保という点でも課題を抱えていました。特に、ピストンの力を回転運動に変えるクランクシャフトは、8気筒分となると非常に長くなります。
長いクランクシャフトは、高回転時に「ねじり振動」と呼ばれる、シャフトがねじれるような振動が発生しやすくなります。 これを防ぐためには、シャフトの素材や設計に高度な技術が要求され、製造コストが高くなる一因となりました。 また、エンジンブロック自体の剛性を確保するのも難しく、エンジンが長いために補機類(発電機やウォーターポンプなど)の配置や、吸排気系の設計も複雑になりがちでした。これらの要因が重なり、直列8気筒は高性能であると同時に、製造とメンテナンスが難しいエンジンでもあったのです。
なぜ直列8気筒は姿を消したのか?
1930年代に黄金期を築き、高級車と高性能車の象徴であった直列8気筒エンジン。しかし、第二次世界大戦後、特に1950年代に入ると急速にその姿を消していきます。 その背景には、ライバルとなるエンジンの進化と、自動車社会の変化がありました。
V型8気筒エンジンの台頭
直列8気筒を歴史の表舞台から退かせた最大の要因は、V型8気筒(V8)エンジンの技術的成熟と普及です。 V8エンジンは、4つのシリンダーを左右のバンクにV字型に配置する構造で、同じ8気筒でありながら直列8気筒に比べて全長を劇的に短くすることができます。
戦前の時点では製造技術の問題で直列8気筒が主流でしたが、戦後のアメリカで大量生産技術が確立されると、よりコンパクトで高出力を得やすいV8エンジンが急速に普及しました。 パッカードのような直列8気筒の名門メーカーでさえ、1950年代半ばにはV8エンジンへの転換を余儀なくされたのです。
車両設計上の制約(エンジンルームのスペース)
自動車の設計が進化するにつれて、直列8気筒の「長さ」はますます大きな足かせとなりました。 戦後の自動車デザインは、より低く、よりコンパクトなものが主流となっていきます。その中で、長大なエンジンを収めるための長いボンネットは、デザインの自由度を著しく制限しました。
V8エンジンを採用すれば、エンジンルームを短くできるため、その分、乗員スペースを広く確保できます。 また、エンジンが短いことは、サスペンションの設計や重量配分の最適化においても有利に働きます。運動性能や居住性の向上が求められる中で、スペース効率の悪い直列8気筒は時代遅れとなっていったのです。
衝突安全性への要求の高まり
時代が進むにつれて、自動車には衝突安全性が強く求められるようになりました。衝突時には、車体の前部が潰れることで衝撃を吸収する「クラッシャブルゾーン」が非常に重要になります。
しかし、エンジンルームの大部分を占める長大な直列8気筒エンジンは、このクラッシャブルゾーンを十分に確保することを難しくします。一方、コンパクトなV8エンジンであれば、エンジンの前方に衝撃吸収のためのスペースを設けやすくなります。乗員の安全を守るという観点からも、エンジンのコンパクト化は必然の流れであり、直列8気筒が存続するには厳しい条件でした。
V型8気筒や直列6気筒との比較

直列8気筒がなぜ姿を消したのかをより深く理解するために、ライバルであったV型8気筒(V8)や、同じ直列エンジンで現在も活躍する直列6気筒(直6)と比較してみましょう。それぞれのエンジンの個性が見えてきます。
コンパクトさとパワーを両立したV型8気筒
V型8気筒は、現代でも大排気量エンジンの主流であり、その最大の武器はパワーとコンパクトさの両立です。
- 全長: 直列4気筒エンジンとほぼ同じ長さに収まるため、非常にコンパクトです。 これにより、小さな車体にも大排気量エンジンを搭載でき、スポーツカーから大型SUVまで幅広く採用されています。
- 剛性: エンジンブロックやクランクシャフトが短いため剛性が高く、高回転・高出力化に対応しやすいメリットがあります。
- 振動: クランクシャフトの設計(クロスプレーン)により、振動が少なく滑らかな回転を実現できますが、理論上の完全バランスを持つ直列8気筒や直列6気筒には一歩譲ります。
- サウンド: 左右のバンクから交互に排気されるため、「ドロドロ」と表現される独特の排気音を持ち、これもV8の大きな魅力の一つです。
V8は、直列8気筒が持つ「滑らかさ」という点でわずかに劣るものの、「コンパクトさ」「剛性」「高出力化への対応力」といった実用的な面で大きく上回っていました。 この総合的なバランスの良さが、V8が直列8気筒に取って代わった最大の理由です。
バランスと実用性に優れる直列6気筒
直列6気筒は、直列8気筒と同じく「完全バランス」を実現できるエンジン形式です。 その絹のように滑らかな回転フィールから「シルキーシックス」とも呼ばれ、BMWなどが得意としています。
- 振動: 理論上、一次振動も二次振動も発生しないため、非常に滑らかで静かです。
- 全長: 直列4気筒よりは長いですが、直列8気筒ほど極端ではなく、車両に搭載可能な現実的な長さに収まっています。
- 実用性: V型6気筒に比べて部品点数が少なく、構造がシンプルなため、メンテナンス性に優れるというメリットもあります。
- 現代での復活: 一時はV型6気筒に押されて減少しましたが、近年ではその滑らかさやモジュール設計(気筒数を変えてエンジンをシリーズ化しやすい)の利点が見直され、メルセデス・ベンツやマツダなどが新たに採用する動きもあります。
直列6気筒は、直列8気筒が持っていた「究極の滑らかさ」という美点を受け継ぎつつ、車両に搭載できる実用的なサイズを両立させた、非常にバランスの取れたエンジン形式と言えるでしょう。
回転フィールとサウンドの違い
エンジンの魅力は、スペックだけでなく、そのフィーリングやサウンドにもあります。
- 直列8気筒: 8つのシリンダーが等間隔で連続的に爆発するため、高周波で途切れのない、まるで「フォーン」と鳴り響くような連続音を奏でます。 回転フィールは極めて滑らかで、振動を感じさせません。
- V型8気筒: 左右のバンクから不等間隔で排気される独特の構造(クロスプレーンクランクの場合)により、「ドロドロ」「ボロボロ」といった力強いサウンドが特徴です。脈動感のあるフィーリングが、パワフルな印象を与えます。
- 直列6気筒: 完全バランスによる滑らかな回転フィールが特徴。サウンドもスムーズで、高回転まで「クォーン」と気持ちよく吹け上がります。
| エンジン形式 | 全長 | 振動バランス | 主なメリット | 主なデメリット |
|---|---|---|---|---|
| 直列8気筒 | 非常に長い | ◎ (完全バランス) | 究極の滑らかさ、静粛性 | 長さ、重量、剛性確保の難しさ |
| V型8気筒 | 短い | 〇 | コンパクト、高出力、剛性 | 構造の複雑さ、部品点数が多い |
| 直列6気筒 | やや長い | ◎ (完全バランス) | 滑らかさ、構造のシンプルさ | V型6気筒より長い |
このように比較すると、直列8気筒は「滑らかさ」という一点においては究極でしたが、他の多くの実用的な側面でV型8気筒や直列6気筒に劣っていたことがわかります。
まとめ:ロマンの塊、直列8気筒エンジンの魅力とは

この記事では、直列8気筒エンジンについて、その基本構造から栄光の歴史、メリット・デメリット、そしてなぜ現代の車から姿を消したのかを詳しく解説してきました。
直列8気筒エンジンは、8つのシリンダーを一直線に並べた壮大なレイアウトを持ち、理論上振動をゼロにする「完全バランス」によって、他のどのエンジン形式も敵わない究極の滑らかさと静粛性を実現していました。 1920年代から30年代にかけて、その優雅さと性能で高級車やレーシングカーの世界を席巻し、自動車史に輝かしい一時代を築いたのです。
しかし、その長大なサイズは車両設計の自由度を奪い、重く、製造コストも高いというデメリットを抱えていました。 やがて、よりコンパクトでパワフルなV型8気筒エンジンが技術的に成熟すると、総合的なバランスで劣る直列8気筒は、次第に主役の座を譲ることになりました。
効率性やスペース効率が最優先される現代において、直列8気筒エンジンが復活することはおそらくないでしょう。それでも、その滑らかな回転フィール、長く優雅なボンネットが描き出す美しいスタイリングは、自動車が持つロマンや夢を凝縮した存在として、今なお多くのクラシックカーファンを魅了し続けています。直列8気筒は、まさに「性能の頂点を極めた、古き良き時代の象徴」と言えるでしょう。



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